オレなりに咀嚼して書いてみたいと思ったので、記します。
「さようなら」というのは、「左様なら」。
つまり、「左様」+「なら」。
「そういうこと(左様)でしたら(なら)、(いたしかたありません)」という自分の思いを断ち切る意味があります。
また、友人はこう言います。
それでも力を尽くしたその果てに訪れる、人の力の遠く及ばぬ摂理が別れだと思うのです。
そんな大きな摂理である別れに際して、『さようならば』と思いを断ち切り運命を受け入れる潔さをこの日本語に感じます。
目の前の、到底「左様ですか」と受け入れることができない別れに対して、「左様ならばいたしかたない」と別れを受け入れるとき、心が引き裂かれる思いで「さようなら」と言います。
「そうならねばならぬのならば(いたしかたありません)」と思い、「さようなら」と言うのです。
オレはね。もう1回「さようなら」という時が来るのだと思うのです。
大切な人を失って自分の心が裂けちゃっても、
周りの世界はいつもと同じ時を刻むし、
自分を取り巻く支えてくれる人がいるし、
そうした人の助けを借りて自分も強くなるし、
その中で自分を見直した時に、その人との別れを「受け入れる」ことができたとき。
「左様(私を取り巻く世界がこうである)ならば、あなたとの運命を受け入れることができる」
と思えるときが、いつかやってくるのだと思います。
そのときには、「そうならねばならぬのならば(いたしかたありません)」と思い「さようなら」と言った時とは別の意味で、
「さようなら」
と言えるのではないでしょうか。
人間は、今ある現状を認めて生きていかなければならないことが、とっても多いです。
「左様なら(しかたありません)」の「さようなら」。
「左様なら(大丈夫です)」の「さようなら」。
後者の「さようなら」が言えるようになったとき、本当の「さようなら」ができるような気がします。
暖かい人々の中で生きていけば、必ず「さようならば(だいじょうぶです)」という心境になれるものだと信じています。
『なんと美しいあきらめの表現』とさようなら
という言葉が言われるのは、カンパチの言う”あなたとの運命を受け入れる事ができる”も含んでいると思います。
カンパチがこのブログのさようならを発表したので、
あわててさようならしたくないよーと
悪あがきの連投コメントを書くわたし。いや、オレ。(笑)
この日記には、ある友人に元気を出してもらいたくて書いたものなんだ。
「左様なら(大丈夫です)」って心境にさせてくれる仲間、家族。
大切にしよー。